「現代詩手帖」5月号に執筆
「現代詩手帖」5月号が届いた。短歌時評「うたの凹凸」の三回目。「NHKの短歌観」と題して、400字×3枚を執筆。三月十九日のNHKスペシャルで放映された「ケータイ短歌 空を飛ぶコトバたち…」の率直な感想、と言ってたぶんさしつかえない内容だと思う。
「現代詩手帖」5月号が届いた。短歌時評「うたの凹凸」の三回目。「NHKの短歌観」と題して、400字×3枚を執筆。三月十九日のNHKスペシャルで放映された「ケータイ短歌 空を飛ぶコトバたち…」の率直な感想、と言ってたぶんさしつかえない内容だと思う。
4月27日付の朝日新聞夕刊、中部版学芸面のコラム「東海の文芸」に、詩歌句を対象とした時評約2000字を執筆した。対象にしたのは、水尾佳樹さんの企画した三月十二日の名古屋市中区でのポエトリーリーディングのイベントならびにそこで朗読された若原光彦さんの作品。それから、川柳誌「緑」の臨時増刊号として刊行された渡辺和尾さんの個人誌「青い実」の復刻版。
角川書店「短歌」5月号が届いた。特集は「栗木京子」。「愛誦性を超えて−栗木京子の言葉の位相」と題して400字×10枚を執筆。『水惑星』『中庭』の作品を中心に、ことばをめぐる栗木さんの方法意識について、感じていることをシンプルにまとめてみた。
小学館の女性向けコミック誌「Judy」6月号が届いた。「表紙の短歌」の選および解説コラム「三十一文字のJudyたち」の掲載第一回目である。今回は五十嵐きよみさんの第一歌集『あなたに似た人』から「まっさらに戻って一から始めたい他人の記憶の私を消して」を紹介した。
「現代詩手帖」4月号が届いた。短歌時評「うたの凹凸」の二回目。「女歌の時代が残したもの」と題して、400字×3枚を執筆。青幻舎から刊行された『永井陽子全歌集』を題材に、永井陽子的な女歌の文体と現代の自己像をめぐる不全感の強い文体との酷似について言及した。
ながらみ書房から「短歌往来」4月号が届く。岡井隆歌集『馴鹿時代今か来向かふ』の書評「時の流れと方法意識」を執筆した。400字×3枚半。文中で触れる余裕がなかったが、このところの石井辰彦さんとの編集や朗読企画を通じての岡井隆さんの方法意識の突出が、この私的な時の流れをフレームとするタイプの歌集にも、弾み、のような感触を与えているのではないかと推察される。ここに付記しておく。また同号の、菊池裕さんの「マルチメディアと短歌のゆくえ」では『短歌、WWWを走る。』の解題文に、鈴木竹志さんの「歌誌漂流」では「井泉」創刊号の「秀歌と愛誦歌とリアリティ」に、それぞれ教導的に言及してもらえた。考えを進めてゆく参考にしたいと思う。感謝。
「現代詩手帖」3月号が届いた。今月から短歌時評「うたの凹凸」の連載がはじまる。初回は「現代短歌とポピュラリティ」と題し、400字×3枚を執筆。佐藤真由美さんの『恋する歌音』を題材に、ポピュラリティという視点から発生する現代短歌の領域の問題を少し考えてみた。
2月23日付の朝日新聞夕刊、中部版学芸面のコラム「東海の文芸」に、詩歌句を対象とした時評約2000字を執筆した。対象にしたのは、このほど青幻舎から刊行された『永井陽子全歌集』と中部日本俳句作家会の『平成十六年度版中部日本年刊句集』の二冊。
花森こまさんの個人誌「逸」18号が刊行された。昨年の「逸」のシンポジウムに出たときのぼくのレジュメ「声のシンポジウムのためのメモ」がそのまま掲載されている。400字×5枚弱。朗読については、その時点からかなり考えが推移したが、レジュメに記述してある「現在、ぼくたちが、詩歌の作品において共有している調べの概念は、声によるものではなく、文字によるものだということは再認識しておくべきだろう」という見解はまったく変わっていない。
現代俳句協会の機関誌「現代俳句」2月号が届く。昨秋の第84回現代俳句協会青年部勉強会での講演要旨を原稿化して寄稿。「題詠について」、400字×6枚弱。スペースの都合で具体的な例としての作品を入れられなかった。いずれ機会があれば補完したい。
短歌ヴァーサスのウェブに1月最後のエッセイを執筆した。今月も継続して毎週日曜に掲載された。1回あたり800字で計4回。今月は作品鑑賞。対象としたのは、9日=塚本邦雄、16日=浜田康敬、23日=本田瑞穂、そして本日30日=穂村弘。ご覧いただければ幸いです。なお、来月の予定は、後日お知らせいたします。執筆交代に際して一時更新がお休みとなります。
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歌誌「短歌人」2月号が届いた。同号には、大橋麻衣子さんの第一歌集『シャウト』の書評が掲載されている。松平盟子さん矢嶋博士さんとともに、ぼくも「ドラマを超えて」400字×4枚弱を執筆した。
学校図書「教科研究中学校国語」177号が届く。短歌をめぐるエッセイ「観覧車はいつどこで回っているのか?」を執筆。400字×15枚。現代短歌の解釈について考察した。同誌は学校教育の現場向けの情報誌である。
短歌ヴァーサス6号の内容紹介が、風媒社のウェブに掲載された。表紙は井口一夫さんとよしだかよさん。特集は「ネット短歌はだめなのか?」と「正岡豊誌上歌集『[増補版]四月の魚』の二つである。この号では、「短歌と[場]」連載6回目「歴史性と同時代性」1800字を執筆した他、特集における、吉川宏志さんとの対談「リアルな〈歌〉のありか」、『[増補版]四月の魚』の拾遺四十五首の選とノートなどを出稿した。
竹村紀年子さんを編集発行人とする短歌誌「井泉」が創刊された。慶祝。春日井建さんを師として来た人たちによる始動のようだ。表紙は春日井さんによる絵で飾られ、創刊号では春日井建追悼が特集として組まれている。ぼくは、リレー評論「短歌の今を考える」に「秀歌と愛誦歌とリアリティ」400字×11枚を執筆した。同誌の今後の展開に期待したい。
短歌ヴァーサスのウェブに12月最後/今年最後のエッセイを執筆した。今月も継続して毎週日曜に掲載された。1回あたり800字で計4回。タイトルは、5日が「題詠考」、12日が「安定考」、19日が「出逢考」、そしてきょう26日が「次波考」。来月/来年も引き続きご覧いただければ幸いです。なお、12月29日から1月4日まで、同ウェブの更新はお休みとなります。
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12月22日付の朝日新聞夕刊、中部版学芸面のコラム「東海の文芸」に、詩歌句を対象とした時評約1000字を執筆した。今回は年間回顧である。同コラムの小説・評論の部門を執筆している清水良典さんの文章と併載された。
「週刊読書人」12月17日号が届いた。年末恒例のアンケート特集「二〇〇四年の収穫」に、3冊を対象とした400字のコメントを出稿。制作にダイレクトにかかわった歌集で入れたくなるものもあったのだが、それらは対象外とした。
短歌ヴァーサスのウェブに11月最後のエッセイを執筆した。今月も継続して毎週日曜に掲載された。1回あたり800字で計4回。タイトルは、7日が「日記考」、14日が「枡野考」、21日が「酩酊考」、そしてきょう28日が「終刊考」。来月も引き続きご覧いただければ幸いです。
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11月24日付の朝日新聞夕刊、中部版学芸面のコラム「東海の文芸」に、詩歌句を対象とした時評約2000字を執筆した。「短歌四季」の終刊をめぐる話を枕に、さとうますみさんの第一歌集『プラスチック紀』(短歌研究社)と加藤聡明さんの第二歌集『Z』(雁書館)をとりあげた。後者は、横組みの改行スタイルで、いわゆる「レイアウト短歌」と呼ばれている表記法の歌集である。紙面の都合でそのまま引用できないのが惜しかった。
題詠マラソン2004、最終日に完走した。題詠100首である。昨年はゴールの近い時期にパソコンのクラッシュがあり、書きためてあった作品やメモを一切消失したため、モチベーションが下がり、結果として少しクオリティが落ちていたと思う。今年は、最終日にどたばたしたものの、個人的な題詠のハードル設定を下げることなく書けた。一連の作品は、何か企画の素材に活用しようかと考えているが、いまのところまだ白紙状態。もしも一緒に企画を考えてもらえる人がいましたら、荻原までご一報いただけるとうれしいです。出詠の100首は、題詠マラソン2004の過去ログから「荻原裕幸」のキーワードで検索すると、一括して読むことができます。
※荻原裕幸のメールアドレスは(ogihara@na.rim.or.jp)です。
短歌ヴァーサスのウェブに10月最後のエッセイを執筆した。今月も継続して毎週日曜に掲載された。1回あたり800字で計5回。タイトルは、3日が「選考考」、10日が「共鳴考」、17日が「錯覚考」、24日が「均衡考」、そしてきょう31日が「愛郷考」。来月も引き続きご覧いただければ幸いです。
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午後、「短歌研究」11月号が届く。特集「現代短歌は変わったか−『サラダ記念日』以前・以後」。1991年の同誌の誌上シンポジウム「現代短歌のニューウェーブ」以来の、短歌の現在の再検証である。藤原龍一郎、穂村弘、永田紅による鼎談。小池光、加藤治郎をはじめとした評論。それぞれの視点が百様に繰り出されて、読みごたえのある構成になっていた。感想はあらためて。ぼくは「自己像をめぐって」400字×5枚を執筆した。
結社誌「短歌」10月号が届いた。春日井建追悼号。さまざまな総合誌での追悼特集がすでに出ているため、来月の予定を繰り上げたそうだ。400字×5枚の追悼文「春日井建断章」を執筆した。ずらっと並んだ追悼文を読んでも、故人の死にピンと来ないところが残っている。どこかの会に、ふらっとあらわれてくれそうな気がしてならない。
9月30日付の藤原龍一郎さんの「電脳日記・夢みる頃を過ぎても」に、ぼくが短歌ヴァーサス5号に執筆した飯田有子『林檎貫通式』の書評に対して「飯田有子という人が、かつて「まひる野」という伝統的な結社に所属して、そこで定型にそった短歌をつくっていたということにも触れてほしかったと思う。定型を熟知した上での現在の文体の成立があるということを、きちんと踏まえておかなければ、飯田有子の本質を理解したことにはならないのでは、と危惧する」という感想が述べられていた。そうか、危惧されるような文章だったか、と、件の文章を読み直してみたのだが、ん? と思った。たしかに飯田有子の「まひる野」での活動に直には触れていないものの、短歌へのアプローチの姿を隠した、とは明記している。それも、わざわざ、塚本邦雄の『水葬物語』と並べて。少なくとも藤原さんのように前衛短歌をよく知っている読者には、『透明文法』や『初学歴然』や『薄明母音』等が連想されるはずで、かなりわかりやすいかたちで飯田有子の「過去」が示唆されているのだ。飯田有子の研究論文を書いているわけでもないし、具体的に過去の作品を引用して当該の歌集への言及をこれ以上減らすのも書評としておかしな話だし、自分自身でできるかぎり客観的に判断しても、このアングルから危惧されるほどの文章ではないと思うのだ。よもやぼくが飯田有子の経歴をよく知らないままでこれを書いたと思われたのか? いや、それは藤原さんと直に会って話したこともあるし……、何が言いたいのだろう? としばらく考えていた。日記と、交遊による藤原体験から言えば、この危惧の背景にあるのは、定型に対する基礎的な技術や知識のない場所からいきなり革新的な短歌が生じることはない、伝統や基礎をおろそかにするような誤解が広がるのは歌人の質の低下につながる、という考えであろう。ただ、これは、ぼくの考えともほぼ同じなのである。あの書評を読んで、ぼくの感覚からすればかなり神経質なまでの危惧がたちあがるというのは、藤原さんが、書評に対してもある種の啓蒙性を要求しているからなのかも知れない。だとしたら、それはそれで一つの見識ではあるが、ぼくは、総合誌の読者をもっと信頼していいのではないかと感じている。正確に言えば、信頼した位置で文章を書くのがいいと思っている。実際、藤原さん自身が、同誌同号に書いた笹公人『念力家族』の書評は、そのように読者を信頼した位置で書かれた良質の文章ではないか。この件は、藤原さんに、神経質すぎる! と反論しておこうかな。ぼくも他人に言えたものではないほど神経質だが、この啓蒙的な面であまり神経質になりすぎるのは、一意見をコモンセンスだと押し売りすることにもつながりかねないし、ひいては読者に対して傲慢と感じさせる事態を生んでしまうのではないかと危惧されるのであった。
※補足。いわゆる「主観の問題」の類かとも思ったが、藤原さんの該当日の日記の批判的な匂いもある筆致の矛先が自分にも向けられたことについて、不可解な印象をどうしても拭えなかったので、変にこだわってしまう大人げなさを自覚しながらも、意見を公開することにした。
※補足2。藤原龍一郎さんの掲示板「短歌発言スペース・抒情が目にしみる」において、藤原さん自身から丁寧な説明をもらった。ぼくの書いた文脈の上で言うと「矛先を向けたわけではない」とのこと。となると、上記の文章が「誤解」ないしは「誤読」から生じてしまったものとなるわけだが、ぼく自身の、メディアと文章をめぐっての考えを反映してもいるので、このままの状態で公開しておこうと思う。藤原龍一郎さん、お騒がせしました。対応に感謝します。
9月29日付の朝日新聞夕刊、中部版学芸面のコラム「東海の文芸」に、詩歌句を対象とした時評約2000字を執筆した。今回は、先頃終刊となった俳句同人誌「橋」と中神英子さんの詩集『ファンタジア』(思潮社)をとりあげた。
短歌ヴァーサスのウェブ、9月最後のエッセイを執筆した。9月は毎日曜、計4回、各800字。各回のタイトルは、5日「推敲考」、12日「惹句考」、19日「新人考」、そして今日26日が「真摯考」。来月も引き続きご覧いただければ幸いです。
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「短歌研究」10月号が届いた。特集「歌を生き生きさせる擬音語・擬態語」に900字のエッセイを執筆。柿本人麻呂、佐佐木幸綱、多田零の作品各一首を例歌とした。編集部が基調として掲載した山口仲美さんの談話に、オノマトペでは発音と意味が直結している、といったくだりがあり、興味深かった。意味から解放されていることをそういう角度から見るのか。同誌には、第22回現代短歌評論賞も発表されている。
短歌ヴァーサス5号の見本ができあがった。表紙は飯田有子さん。「新鋭歌集の最前線」と題して、24人の歌人の歌集を対象とした書評を特集した。この号には「その声のする朝から夜へ」30首、飯田有子歌集『林檎貫通式』評「魚住さんとか枝毛姉さんとか」1800字、「短歌と[場]」連載5回目1800字を
執筆した。定期購読者と執筆者への発送は、週末や祝日が重なるため、作業のだんどりによっては9月末近くになるかも知れない。書店への配本は10月の初旬となる予定。
短歌ヴァーサスのウェブ、8月最後のエッセイを執筆した。8月は1日をのぞく毎日曜、計4回、各800字。各回のタイトルは、8日「近影考」、15日「呼名考」、22日「筆名考」、そして今日29日が「句会考」。来月も引き続きご覧いただければ幸いです。
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結社誌「みぎわ」9月号が届く。外部からの寄稿によるシリーズ評論「現代短歌の焦点」の第四回として「自己像の価値」400字×10枚を執筆。俵万智さんと穂村弘さんの作品を軸に、現代短歌の状況の再分析の糸口について書いた。外部寄稿の同時代短歌論に大きくスペースを割くのは、結社誌ではなかなか難しいことだと思う。風通しの良い同誌の運営に敬意を表したい。
思潮社から現代詩手帖特集版「春日井建の世界—〈未青年〉の領分」が刊行された。齋藤愼爾さんと水原紫苑さんの責任編集本。午後、見本誌が届く。追悼文として「指の音」400字×5枚を執筆。春日井さんとのもっとも印象的な思い出とその短歌についての意見をコンパクトにまとめた。同誌、読み物としても資料としても非常に秀でた一冊かと思われる。
高木孝さんの第一歌集『地下水脈』が北冬舎より刊行された。午後、北冬舎から見本が届く。栞文として「差異はつか」400字×6枚を執筆。諸処で言及している短歌の「自己像」をめぐる問題は、ちょうどこの歌集のゲラを読んでいるとき(今年の三月頃だったか)に考えを整理していたので、おのずとそのことが反映されている。歴史的な文体と今風な文体が快く同居した一冊である。
差異はつかなれど一滴づつ落ちる雨のよろこび全身に受く/高木孝
お互ひを見知らぬ他者にする儀式ともしび消して触れ合はむとす
とても、ね、とても静かな、本当は冬木の中にひとりぼつちで
次期課長候補なりしが希望してあの世へ人事異動ありけり
短歌ヴァーサスのウェブにリレー連載のエッセイを執筆した。800字。これから半年間、毎週日曜の掲載となる。息切れしないよう、楽しみながら書いてゆきたいと思っている。
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短歌ヴァーサス3号に執筆した「短歌と[場]3」について、「短歌新聞」の時評で今井恵子さんが言及していた、というのを今井さんのウェブで知った。いちばん言いたかったところを噛み砕いてもらったのがありがたかった。感謝。
http://sojikei.at.infoseek.co.jp/hyoron/hyoron2.html#6
7月28日付の朝日新聞夕刊、中部版学芸面のコラム「東海の文芸」に、詩歌句を対象とした時評約2000字を執筆した。山崎るり子さんの第四詩集『風ぼうぼうぼう』(思潮社)と桑原滝弥さんの第一詩集『花火焼』(にこにこ出版)をとりあげている。後者は名古屋のポエトリーリーディングのイベントを取材して出逢った詩人/詩集。
角川書店「短歌」8月号が届いた。先月号に引き続き、特集「101歌人が厳選する現代秀歌101首」の完結篇が掲載されている。秀歌1首選と1000字の鑑賞文を執筆した。秀歌として選んだ馬場あき子さんの作品は、昨今では、ネットの諸処で白熱する議論を見て、ついモニターの前で口にすることもある。
「短歌研究」8月号が届いた。春日井建さんの追悼特集が組まれている。秀歌鑑賞として、歌集『青葦』からの3首選と600字の鑑賞文を執筆した。訃報を聞いて以来、すでにいくつか追悼文をまとめているが、春日井さんの歌集には、それぞれ思い出し切れないほどの思い出が詰まっていて、その都度とても苦しい気分に襲われている。
長嶋有さんの長篇小説『パラレル』(文藝春秋)の書評800字を共同通信に執筆した。すでに校了。関連新聞紙上に、次の日曜以降に順次掲載予定。長篇に分類されるものはこれがはじめてだそうだが、もともと続編を読みたいと感じさせるタイプの中短篇が多かったので、とても自然な印象があった。名久井直子さんのブックデザインも秀逸。
予定通り、短歌ヴァーサス4号の見本ができあがった。風媒社で確認。表紙には東直子さんが瞳をきらきらさせている。この号には、無記名で、東直子一首鑑賞400字、第2回歌葉新人賞選考委員コメント1400字、「短歌と[場]」の連載4回目1800字を執筆した。書店での発売は7月末頃となる予定。
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