August 13, 2004

「バックストローク」7号

川柳誌「バックストローク」7号、同人雑詠欄「アクア−ノーツ」を読む。この号にはじまったことではないが、日常から日常的視点を超えたところへ川柳の領域を明確に膨らませてゆこうとする意識のありように圧倒される。昨日、付箋や印をつけて抽出した句を以下に書き写してみる。

 一斉に舌出しをする夜の桜/松永千秋
 バス停の椅子と一緒に朽ちてゆく/草地豊子
 そしてもう二度と逢わない鍵括弧/田中峰代
 ぼんやりと春あけぼののふくらはぎ/白藤海
 うっすらと指紋のついた鯵の開き/柴田夕起子
 なるほどと思う五月の霊柩車/田中博造
 ことの起こりと階段がある広場/筒井祥文
 フクロノヨウナモノガタクサンオチテイル/楢崎進弘
 ひんやりと擦過してそのまま水底/清水かおり
 まばたきをしながら種をこぼしおり/広瀬ちえみ
 鳥になるか埃になるか迷っている/同
 南天の揺れる損益分岐点/石田柊馬
 生きている人はいろんな音を出す/丸山進
 ビニールの袋うるさいことを言う/一戸涼子
 途中から雨のにおいがきつくなる/樋口由紀子
 駄菓子屋に蝶が入ってでてこない/同
 口開けてわからないものを見ている/畑美樹
 あのひとにはじめて出合う向こう臑/同
 もしもしと死体に声をかけてみる/石部明
 壜を傾けてこの世を滴らす/同

こうして書き写してみると、それは雑誌の傾向でもあるのだが、情念あるいは情に沿った句が少ないのがわかる。そしてこれはぼくの川柳観の問題だが、詩的概念をひきよせるようなメタファの用いられた句が少ない。ぼくが川柳のジャンル性をどこに見ているかと言えば、一つには、隠喩的文脈よりも換喩的文脈に傾いたときに伝搬力の高まることばの磁場。もう一つは、コンテクストの切断面にたちあがる質感、すなわち不全感が意味の補完を呼び起こす流れ、となるか。同誌に書かれた石田柊馬さんと石部明さんの誌面批評を読むと、川柳作家は、換喩的文脈への傾向を「意味性」と呼び、コンテクストの切断のことを「断言性」とかごくふつうに「省略」と呼んでいるようである。

※川柳誌「バックストローク」のサイトには、以下のURLからアクセスできる。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/back-hp/index-2.htm

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 09, 2004

藤原龍一郎「短歌の賞の現在と課題」/余談的補足

東京で会った何人かと件の文章について話をした。話をしながら、ぼくがこの文章に対していささか感じた困惑がどのあたりに由来するものなのか、それなりに自覚することができた。当初、関係する賞をめぐる見解の相違なのだと思っていたが、どうもそれだけでは説明がつかない。もっと本質的なところに要因があるようだった。それはたぶん、歌壇的メディアに対峙する姿勢の違いだろう。藤原さんの文章は、歌壇的メディアはハイレベルをめざすべきだ、そうさせなければならない、といった使命感的切迫感に満ちている。この感覚がぼくには欠落しているらしい。ぼくの考えはいつも、歌壇的メディアがそのようであるなら、自分の短歌や短歌観をそこで生きさせるにはどうしたらいいか、というアングルからたちあがる。既成のメディアをなぜか不変的で不可避的な前提条件として捉えてしまう。既成のメディアの外側に自分なりのプラスαを加えて、エッジの位置をなんとかずらせないものかなどと考えてしまうのだ。藤原さんの意見はあきらかに大人の発想で、自分のそれはどこかしら負けず嫌いのこどもみたいだとも感じるのだけど、性格に由来するのか、なかなか調整がきかないようである……。

※件の文章に対して先日書いた文章は↓こちら。
http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2004/08/post_4.html

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 05, 2004

藤原龍一郎「短歌の賞の現在と課題」

短歌誌「ちゃばしら」7月号に、藤原龍一郎さんが「短歌の賞の現在と課題」という文章を書いている。短歌の賞をめぐる藤原さんの提言である。新人賞の募集歌数を増やすことで「短歌に賭ける真の表現意識」を持った新人を求めよ、賞を通して発掘した新人に対して主催側はチャンスを与えてきちんと育成せよ、などの主旨の提言にはとりわけ力が入っていた。具体的な賞の名をあげて、こうした文章を書くのはなかなかむずかしい。意見があっても摩擦をおそれて避けてしまうケースが多いだろう。それをあえて藤原さんが書いたことに共感を抱いた。歌葉新人賞や短歌ヴァーサスについての具体的な意見もあり、それもまたありがたいアドバイスとして読ませてもらった。いわゆる「諸般の事情」ではなく、自身の短歌観の反映としてそれぞれの現状があるので、いささか困惑もしたが(たぶんこの困惑は、提言の対象の賞やメディアのすべての関係者が必然的に感じるものだろう)、これからの展開を考えるための良いヒントをもらえたと思う。掲載誌「ちゃばしら」のサイトには、以下のURLからアクセスできる。
http://www.lebal.co.jp/cyabasira_bbs/web.html

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 29, 2004

本田瑞穂『すばらしい日々』

本田瑞穂さんの第一歌集『すばらしい日々』(邑書林)を再読。いま・ここを超えようとする浮遊感が文体のすみずみにゆきわたり、ポップスのさびのようなテンションの高い共感を強いている感じ。ノスタルジックで、リリカルで、具体的に何をどうとは言わないのだけど、読者のきもちのすきまを見つけるとぐんぐんと触手を伸ばしてくるようでもある。ただ、そうした全体の特徴を言うと、では東直子や村上きわみやひぐらしひなつあたりの作品とどう違うのか、といったところはかえって見えにくくなるかも知れない。

 新潟のさといもぬめるしっかりとここで暮らして雪を見なさい/本田瑞穂
 春を待つ気持ち支える屋根からは降った以上に落ちてくる雨
 手を振ると女はすこし手を振って自分の産んだものをみていた
 すばらしい日々を半音ずつ上がり下がりしながらやがて忘れる
 踏切でひとの叫びに似た音がしたわたしいまここにいたのに
 すこし大きい傘の重さを確かめる信じたことは濡らさずに行く

好きとか佳いとかいう感覚を超えて、自分の何かをもっていかれるような印象を抱いた歌を選んでみた。どちらかと言うと浮遊感を抑えている歌だ。レトリックについても、それだけがきわだたないように一首のなかになじませている。描かれた時間や空間が、作者の制御の範疇を飛び出さない歌と言えるだろうか。それなりに固定した時間、それなりに固定した空間が、作者の匂いのようなものをあたりに強く発しているのを感じる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 19, 2004

吉野亜矢『滴る木』

吉野亜矢さんの第一歌集『滴る木』(ながらみ書房)を、付箋を入れながら再読した。吉野さんのモチーフは、たぶん私的には個々に具体性のあるものなのだろうが、全体に描線の淡い感じのしあげがなされていて、読後の印象に、抽象化されたかたまりとして快く残る。領域とか境界とか内と外とか、とりわけそうした観点に敏感なことばが列ねられているようだ。

 自分では選ばぬものと暮らすのも一興笛吹きケトルをおろす/吉野亜矢
 目を覚ませテレビで誰かが怒鳴ってる(テレビが私を消せばいいのに)
 あたらしき本にうす茶の一点がつきてわたしのものとなりゆく
 憎まれるほど輪郭のあるくにに壊されるべき塔として立つ
 草色のコートの外にあるものをたくさん排斥しながら歩く
 売ったのかなくしても生きてゆくことができる臓器のような何かを

好きな作品を抜き書きしてみた。この人の歌の背景には、日常とか生活という呼び名で語られる空間がとても素直に広がっているようだ。ただ、そこからするすると伸びてゆく感覚の触手が、空間の描線を独特のものにしている。作中の一人称への執着が弱く、外部へのこだわりが強い。どこかさめてあきらめたような文体なのに、ことばの温度がきちんと維持されているのが興味深かった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 14, 2004

大野誠夫『薔薇祭』

川村ハツエ編『大野誠夫秀歌鑑賞200』(本阿弥書店)を読みながら、大野誠夫の歌集『薔薇祭』における戦後という時間・空間について考えていた。近藤芳美や宮柊二をおしのけて語るわけにはいかないだろうが、それでも、大野の抱える諦観に似た弱々しさが、きわめてリアルに見えるときがある。戦争へと連想がはしるすべての力強さを拒む、信ずるに足る弱々しさ、とでも言ったらいいか。

 ミゾーリ号に調印せし日も遠くなり光の方へながれゆく音/大野誠夫
 銀色に光れる罐を並べ売る白きインコを肩にとまらせて
 音しづかにジープとまりぬいのち脆き金魚を買ひて坂下りゆく
 何をしても無駄と知りつつ風の辻に呼びとめられてまた署名する

| | Comments (0) | TrackBack (0)