October 28, 2005

2005年10月28日(金)

先週末から慌ただしい一週間だった。どうにか落ち着くかなと思ったら、題詠マラソンの投稿締切が次の月曜である。あと40首か……。「現代詩手帖」11月号が届く。短歌時評「うたの凹凸」と特集「岡井隆 来たるべき詩歌」に一首鑑賞を寄稿した。この特集、ある程度の予想はしていたが、予想していた以上に面白い。ざっと通読して、それから熟読をはじめる。結社誌「短歌人」11月号が届く。特集「猫と短歌」というタイトルに惹かれて読みはじめると、生沼義朗さんと斉藤斎藤さんが、文中でぼくの猫の歌に言及してくれていた。感謝。小学館のドラえもんルームから郵便が届いて、何かと思ったら枡野浩一さんの『ドラえもん短歌』だった。ドラえもん題詠集。こんな歌、いいな。

ジャイアンがもうこの町にいないのは空き地が消えたせいなのだろう/佐々木あらら

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October 18, 2005

2005年10月18日(火)

午後、短歌ヴァーサスの第7号が風媒社から届く。特集は水原紫苑と第三回歌葉新人賞の二つ、刊行が遅れに遅れたが、どうにかかたちになった。すでに第8号の編集作業に入っている。詩歌誌「三蔵2」第五号を読む。巻頭の四方田犬彦さんの詩篇にいきなり打たれ、そのまま最後まで一気に読み進んだ。現代詩と短歌が混在する雑誌で、違和感がまったく生じないのは、二ジャンルを総合的に見渡すだけの企画力や構想力がそこにあるからだと思う。力の中心にいると推測される石井辰彦さんに敬服した。以下、とりわけ強く印象に残った行/首。

きみは反省しない/速度は反省などしないからだ/四方田犬彦
液化してゆくつて、何が? 涙からできてる星で、今更、何が?/石井辰彦
日だまりのどうぶつえんのライオンがめすライオンのなかにだすまで/斉藤斎藤

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October 05, 2005

2005年10月5日(水)

冷たい雨のなか、午後、中京大学へ。「俳句を楽しむ」の三回目。例によって作品鑑賞をめぐっての質問が出る。今回はいずれも俳句だったが、永田耕衣、寺井谷子、鳴戸奈菜、と、ちょっと対応しにくいラインアップであった。受講者さんたちの選択がとてもおもしろいけれど、毎回小テストを受けているような奇妙な気分でもある。[sai]という短歌同人誌が創刊された。内容を楽しく読んでいるところだが、メンバーの視線の向きが、画期的と言ってもいいほどにばらばらである。この雑誌に「同人誌」の冠を使うのは止めた方がいいと感じた。いわゆるグループではなくユニット、つまり小共同体ではなく共同体間の交流に近いものだと明示しておかないと、この雑誌の抱えるメディアとしての質的な新鮮さが伝わりにくくなるのではないだろうか。

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April 26, 2005

「短歌」5月号に執筆

角川書店「短歌」5月号が届いた。特集は「栗木京子」。「愛誦性を超えて−栗木京子の言葉の位相」と題して400字×10枚を執筆。『水惑星』『中庭』の作品を中心に、ことばをめぐる栗木さんの方法意識について、感じていることをシンプルにまとめてみた。

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April 06, 2005

2005年4月6日(水)

午後、栄へ。デパ地下のイートインで家人と昼食。その後、MさんならびにTさん夫妻と打ちあわせ。文芸関係ではない仕事。夕刻、書店等をめぐって、夜、帰宅。総合誌「短歌」4月号を読む。特集は「平成短歌この十五年の収穫」。それぞれの執筆者の文章自体はおもしろく読んだが、正直なところ、この十五年が見えて来たという気はしなかった。現在ほど現在を語るのがむずかしい時代はないのかも知れない。ただ、数人の執筆者をのぞくと、意識的に視野を限定している印象が強い。もう少しくらいは十五年という時間の流れ全体にかたちを与える動きがあってもいいのではないかと感じた。

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April 02, 2005

2005年4月2日(土)

早朝まで仕事。午前中はひたすら眠る。午後、家人と熱田のイオンへ。あれこれと必要なものを買う。川本千栄さんから同人誌「ダーツ」第7号が届く。今回の特集は「歌人論」。評論誌に方向性をもたせようとすると、一般に、史的区分によるテーマが浮上して、メンバーが義務的に執筆するケースも見られるが、この雑誌は舵取りがうまくできていて、毎号、メンバーの好きなものが書けるように配慮されている。史的フレームに絡めとられないこと、それ自体が一つの方向性にもなっているらしい。ただ、それがときに気になる要素を生じさせる要因でもあるようで、川本さんの仙波龍英論などを読んでいると、フレームから逃れようとする手際が、やや強引に見える部分もある。史的位置づけから離れた鑑賞も大切だろうとは思うものの、同時代の歌集を並べれば、仙波の詞書ないし註は、岡井隆『人生の視える場所』から小池光『日々の思い出』に到る一九八〇年代の詞書シーンの時期的な真ん中に位置するものに見えるし、同時代的固有名詞の活用については、永田和宏の指摘した「普遍性という病」(から脱するため)のコンテクスト上にあるとも見えよう。これらの歌集や歌論はいずれも八〇年代の史的な里程標のようなものであり、ライトヴァースではない、という仙波自身の主張は、この別の角度からの史的足跡への自負とも言えるのではないか、と、ぼくなどは思う。史的な位置づけを離れる前に、史的な位置づけの再認識も必要ではないだろうか。川本さんの着眼点はとても好きだが、このあたりに、同時代的視点から引き離そうとするいささか強引な姿勢が見える気もした。

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March 21, 2005

2005年3月21日(祝)

日曜、仮眠しただけで早朝に起きる。NHKスペシャル「ケータイ短歌 空を飛ぶコトバたち…」の録画を見る。歌人を対象にした番組ではないので、その角度からの感想は控えるが、一つの番組を支えるだけのコンテクストがきちんと示されていない、と感じざるを得なかった。午前、新幹線で上京、吉祥寺へ。「かばん」の二歌集合同の批評会。参加者は60人ほどだったらしい。感想は別にまとめる。一泊して今日、午後から四ッ谷へ。「かばん」の企画の対談。淡路町の近隣に宿泊したので、地下鉄丸ノ内線に乗って移動、十年前の事件を思い出していた。早めに着いたので駅の周辺を散策する。相手は穂村弘さん、司会は飯田有子さん。スタッフとギャラリーをあわせて10名ほど。テーマは、現代短歌の文体をめぐるあれこれ。6月号に掲載予定。終了後、有志で食事。夜、帰名。

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March 16, 2005

「短歌往来」4月号に執筆

ながらみ書房から「短歌往来」4月号が届く。岡井隆歌集『馴鹿時代今か来向かふ』の書評「時の流れと方法意識」を執筆した。400字×3枚半。文中で触れる余裕がなかったが、このところの石井辰彦さんとの編集や朗読企画を通じての岡井隆さんの方法意識の突出が、この私的な時の流れをフレームとするタイプの歌集にも、弾み、のような感触を与えているのではないかと推察される。ここに付記しておく。また同号の、菊池裕さんの「マルチメディアと短歌のゆくえ」では『短歌、WWWを走る。』の解題文に、鈴木竹志さんの「歌誌漂流」では「井泉」創刊号の「秀歌と愛誦歌とリアリティ」に、それぞれ教導的に言及してもらえた。考えを進めてゆく参考にしたいと思う。感謝。

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March 13, 2005

2005年3月13日(日)

きのうは夕刻から鶴舞へ。イベントをリハーサルの途中から見学、終了したのは深夜0時に近かった。感想はたぶん別所にまとめることになると思う。会場を出ると、真冬のような寒さ、歯がかたかた鳴る。きょうもずいぶんと冷えこんだようだ。午後、書きあげた原稿をメールで入稿。Yさんからのテキスト使用の問いあわせに返信。とてもうれしいオファーだった。夕刻、外へ出ると雪がちらちらと降りはじめる。春の雪か。短歌誌「レ・パピエ・シアン」4月号、特集「口語と定型」を読む。大辻隆弘さんの「『ざっくりとした定型意識』について」、大半はおもしろく読んだのだが、一点、ざっくりとした定型意識の感じられる歌人たちに方法意識がないとするだけの論理的根拠は、大辻さんの文章には含まれていないのではないかと思った。論旨からすると、この根拠が文章の核にならなければおかしいような気がするのだが……。小林久美子さんの「現代の表層を歌い続ける」もおもしろく読んだ。作品分析がとても丁寧でそれだけでも充分に現代短歌の見取図になっている。表層というキーワードの含む意味がさらに明確になれば、歴史と同時代とを同時に掴みきれるのではないだろうか。

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March 06, 2005

2005年3月6日(日)

私事と仕事で慌ただしい日が続いている。結社誌「かりん」3月号、小高賢さんの評論「短歌の力はどこにあるのか」を読む。この評論は「いま近代短歌がおもしろい」というフレーズからはじまる。「いま」とはいつのことだろう。小高さんがこの種の意見の萌芽ともとれる発言をしたのは、一九九〇年代のことだったかと思うが、近代短歌は一九八〇年代にだって魅力的だったと思うし、一九九〇年代や二〇〇〇年代の状況をうけての「いま」という文脈で、近代短歌がおもしろい、と言ってしまうのは、どうもアジテーションの匂いが強くて、ロジックとしてのざらつきを感じてしまうのだった。「言語芸術としての短歌という側面がどうも強調されすぎている」とも小高さんは言う。強調されすぎているかどうかは何とも言えないが、近代短歌や短歌史が、現在において共有される場があるとすれば、むしろ「言語芸術としての短歌という側面」からではないだろうか。そんな気がしてならない。夕刻、家人と栄へ。花屋、書店、等で用件を済ませ、食事をしてから帰宅。あすは所用で上京する予定。

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