September 14, 2004

題詠マラソン2004/村本希理子5首選

題詠マラソン2004、村本希理子さんの100首からの5首選。ちょっとしたわけがあって村本さんの作品をマークしていた。彼女が完走したところで5首を選んでみた。ここまで選びきることもない佳作の多い100首だが、厳選はそれなりに意味があると思うので。

 もうゐない犬のかたちをなぞりつつひかりの中をうごけずにゐる/村本希理子
 あまりにも濃い夕焼けをいぶかしみ空の発する音を捜した
 歯磨きの好みのことを言ひあつてそののち深き水音をきく
 高台にあるお屋敷に病弱な美少女がいてもいなくても 夏
 どこまでが家族或いはどこからが家族どこかが磨り減る音が

一首目の「もうゐない犬のかたち」は、かたち、という語をはじめとした乾いた語の選択によって、文体が実にうまくまとまっている。死や失踪をあからさまには感じさせないため、かえって読む側の深いところに情景が届くのだろう。二首目の「あまりにも濃い夕焼け」は、遠い国での戦争がモチーフだと思うが、仮にそれを意識しなくても読めるのがいい。背景の散文的情報をダイレクトに入れないからこそことばがきらめいた感じがある。三首目の「歯磨きの好み」は、深き水音、という思わせぶりな謎が活きている。思わせぶり、も、謎、も、どちらかと言えばマイナス要因になりやすい。それが活きたのは、平凡に近い日常空間を枠組みにした効果か。四首目の「高台にあるお屋敷」は、ひととき笑い、やがてそこはかとない哀愁にみまわれる。発語者の視点が、美少女自身でもあり美少女をあこがれてみあげるもう一人の少女でもあり、と、安定せずにスライドする感じは、瑕とはならない魅力になっているようだ。ただ、現代仮名なのは、ミスなのかな……。五首目の「どこまでが家族」は、ことば遊びのようなこのことばの流れのなかにこれだけの発見があるというのが凄い。狙ってもなかなか書けるものではないし、まさに、題詠による収穫、と言えようか。それで、ちょっとしたわけ、というのは、今年の四月中旬、村本さんの掲示板で、題詠マラソンのぼくの作品に対するコメントを読んだとき、なんとなく、作者と読者として相性のいい時期なのではないか、と思ったことだった。その後も、かなり苦しいシーンで何回も彼女のコメントに救われた。というわけで、感謝のきもちをこめて。

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July 18, 2004

2004年7月18日(日)

朝顔やきのふは深き渕を見て/永島靖子

『紅塵抄』(一九九一年)の一句。深き渕、はたぶん嘱目なのだろうが、これはもう心象に転位させて読んでくれと句が語りかけているようなものだ。何から解放されたという具体性はない。けれど、何かから解放されたその緩んだ感じがじわじわしみて来る朝、というのはそれなりに思いあたる感覚がある。卑近なところで言えば、仕事にきりのついた朝か。たまにはこんな風に朝顔と出逢いたいものである。午後、実家の父母が食べ物のさしいれに。終日、進みの悪さにいらいらしながらの仕事。いくつかはクリアしたのだが、いくつもが積み残しに。明日もすっきりしない朝になりそうだ……。

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