October 27, 2005

2005年10月27日(木)

午後、某社から電話で書評の依頼。面白そうな、でも、難しそうな本。ちょっと考えこんだが、ひきうける。俵万智さんの歌集『プーさんの鼻』(文藝春秋)が届く。出産と子育てをメインモチーフにした歌集というのは、かなりたくさん読んだけれども、こんなにほほえましい気分になるのははじめてか。哀愁はあっても憂鬱がない。作者の個性、と言うよりは、方法論に近いものなのだろう。単純に表現史のコンテクストにのせると批判のポイントも多く見えるが、この徹底したほほえましさの世界は、そうした批判の埒外にあるのかも知れない。少し時間をかけて考えてみようと思う。

ぽんと腹をたたけばムニュと蹴りかえす なーに思っているんだか、夏/俵万智

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October 25, 2005

2005年10月25日(火)

午後、愛知芸術文化センターへ。有志による定例の読書会。出席は5人。テキストは北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)、同書はこれで二回目。序章に、「冬のソナタ」で爆笑、『世界の中心で、愛をさけぶ』に激怒、しかしながら『電車男』を読み終えて泣いた、という微妙な著者の感覚が語られていて、この感覚の論理的背景こそが一冊のモチーフになっている。論理として何を言いたいのかは理解できても、この感覚に対しての違和感が消えないままで、どこかしらすっきりしないものも残った。1960年代以降を対象とした本にはいつも感じるのだが、著者と読者の年齢差による共有事項のずれというのはなかなか解消できないものらしい。

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October 19, 2005

2005年10月19日(水)

午後、中京大学へ。講座「俳句を楽しむ」の五回目。講義をしながら、一句のなかにある季題/季語にどのくらいの負荷をかけていいのか、という、季語の機能の限界みたいなものが、自分のなかで、線ではなく帯になっている、つまり幅をもっていることに気づく。これは、読むとき説くときには便利だが、書くときには負の要素にしかならないだろう。再考せねば。終了後、八事のジャスコで買い物をする。喫煙所へたばこを喫いにゆくと、ご婦人たちが、このところ名古屋で頻繁に起きているひったくりの話でにぎやかだった。なかの一人はきょう被害にあって事情聴取を終えたところだという。早く犯人が逮捕されますように。

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October 14, 2005

2005年10月14日(金)

午後、次号の「現代詩手帖」のゲラを読む。最終の校正。11月号は、短歌時評の他、岡井隆特集に短いエッセイを書いた。現代詩誌で岡井さんの特集が組まれるのは、思潮社が全歌集の版元だという販促的側面もあるにはあるけれど、作家に対しても雑誌に対しても、あらためてすごいなあと感心する。短歌誌や俳句誌で隣接ジャンルの作家特集を組むのはかなりな困難を伴うだろう。現代詩ももちろん短歌や俳句と同じくジャンルとして特化され細分化されてもいるが、微妙に違うのは、つねに、束ねる者、としての意識があることか。これは、第二クールに突入した田中庸介さんたちの詩誌「」を読んでも感じていた。ちなみに、短歌や俳句は隣接ジャンルに対して、競う者、としての意識があると思う。

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October 11, 2005

2005年10月11日(火)

午前中はかなりのんびり眠ってしまい、起きて急ぎの作業をしようとしたらパソコンが珍しく不調、ばたばたと慌てて、午後、ねじまき句会の例会、愛知県産業貿易館へ。大幅に遅刻してしまった。出席は7人。題詠「無」。定型詩を考えるとき、文体の成熟度と作品の構成がうまく噛みあっているか、が一つの指標になることがあるけれど、ジャンルを超えた作者、たとえば、短歌歴は十年で川柳歴は一年、というような場合、成熟度の表面化が不規則で、混沌とした感触がたちあがる。場としての是非はよくわからないが、ねじまき句会の特徴は、ぼくを含めて、この混沌とした感触の作品が多いことかも知れない。

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May 15, 2005

2005年5月15日(日)

きのう、高木孝さんの第一歌集『地下水脈』の批評会で上京。参加者は30名ほどだったかと思う。田中槐さんの司会で、快く話のできる会だった。ぼく自身は栞文の範囲を超えない意見しか出せなかったが、この歌集の過剰な多様さにとまどいをおぼえる人が多かったようだ。編集的な見地からするとどうかという質問を田中さんからふられて、一冊のテーマかコンセプトをもう少し見えやすくするように勧めると答えたところ、実際の編集者の柳下和久さんも同じことを勧めたと言っていた。高木さんがそれを拒んだというのは、明確な考えに基づいてのことだとは思うが、多少計算違いがあったんじゃないかと感じたのは、高木さん自身がオペラではなく交響曲のようにまとめたかった、と言っていた点である。凡庸な筋書き/フレームをあえて利用した方が、読者は交響曲を聴くように、意味にこだわらずにすらすら読んでくれるものではないだろうか。筋書きやフレームを見せないようにすると、読者はかえってそこにこだわり、迷宮的状態に陥りやすい。音楽では意味が邪魔になるかも知れないが、文字表現での意味は、それが凡庸であればあるほど意味をなさず、むしろすらすら読める気がする。深夜、帰名。日帰りでの東京はなかなかきついものがある。きょうもまた仕事をしながら疲れをとるという事態になった。

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April 10, 2005

2005年4月10日(日)

オフではなかったものの、どこかぼんやりした感じだけが残る一日。石井辰彦さんのウェブ日記に「私の韻文の作品は、どれも短歌なんですけど……」というくだりがあって、この人の、あたりの柔らかな、しかし短歌観をめぐる断固たる自信に、説明しがたい微笑を浮かべてしまった。ただ、石井さんが、馬場あき子さんや他の誰かに「たまには短歌も書きなさいな!」と言われるのは、短歌観の問題ではなく、連作の一首一首があまりにも緊密な構成をとるからだろう。連作を一首一首にほぐしたとき、その一首だけで読める、意味がわかるだけではなく作品として独立している、と感じられる作品の比率があまりにも少ないと、三十一文字×自然数という形式で構成された短歌ではないもの、と読者に判断される可能性はおのずと高くなるのではないだろうか。数値を正確に言って線引きできる話ではないけれど、これはやはり「比率」の問題だと思われる。

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April 02, 2005

2005年4月2日(土)

早朝まで仕事。午前中はひたすら眠る。午後、家人と熱田のイオンへ。あれこれと必要なものを買う。川本千栄さんから同人誌「ダーツ」第7号が届く。今回の特集は「歌人論」。評論誌に方向性をもたせようとすると、一般に、史的区分によるテーマが浮上して、メンバーが義務的に執筆するケースも見られるが、この雑誌は舵取りがうまくできていて、毎号、メンバーの好きなものが書けるように配慮されている。史的フレームに絡めとられないこと、それ自体が一つの方向性にもなっているらしい。ただ、それがときに気になる要素を生じさせる要因でもあるようで、川本さんの仙波龍英論などを読んでいると、フレームから逃れようとする手際が、やや強引に見える部分もある。史的位置づけから離れた鑑賞も大切だろうとは思うものの、同時代の歌集を並べれば、仙波の詞書ないし註は、岡井隆『人生の視える場所』から小池光『日々の思い出』に到る一九八〇年代の詞書シーンの時期的な真ん中に位置するものに見えるし、同時代的固有名詞の活用については、永田和宏の指摘した「普遍性という病」(から脱するため)のコンテクスト上にあるとも見えよう。これらの歌集や歌論はいずれも八〇年代の史的な里程標のようなものであり、ライトヴァースではない、という仙波自身の主張は、この別の角度からの史的足跡への自負とも言えるのではないか、と、ぼくなどは思う。史的な位置づけを離れる前に、史的な位置づけの再認識も必要ではないだろうか。川本さんの着眼点はとても好きだが、このあたりに、同時代的視点から引き離そうとするいささか強引な姿勢が見える気もした。

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March 30, 2005

2005年3月30日(水)

午後、原稿の続き。Sさんの歌集草稿の再読をはじめる。夕刻、別のSさんから要確認原稿が届いたのでチェック。島津忠夫さんの『女歌の論』を再読。一九七〇年代から八〇年代にかけての女歌の問題というのは、八〇年代当時、いわゆる高度消費社会の向こう側のできごとだと思っていたけれど、現在の視点であらためて考えてみると、あきらかに今に直結しているこちら側のできごとだと感じられる。女歌の流れが、八五年の「三十一文字集会」で、いきなり途切れたようになっている理由は、シンポジウム等、女歌の現場の問題としてではなく、もっと大きな視点で問われるべきなのかも知れない。

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March 13, 2005

2005年3月13日(日)

きのうは夕刻から鶴舞へ。イベントをリハーサルの途中から見学、終了したのは深夜0時に近かった。感想はたぶん別所にまとめることになると思う。会場を出ると、真冬のような寒さ、歯がかたかた鳴る。きょうもずいぶんと冷えこんだようだ。午後、書きあげた原稿をメールで入稿。Yさんからのテキスト使用の問いあわせに返信。とてもうれしいオファーだった。夕刻、外へ出ると雪がちらちらと降りはじめる。春の雪か。短歌誌「レ・パピエ・シアン」4月号、特集「口語と定型」を読む。大辻隆弘さんの「『ざっくりとした定型意識』について」、大半はおもしろく読んだのだが、一点、ざっくりとした定型意識の感じられる歌人たちに方法意識がないとするだけの論理的根拠は、大辻さんの文章には含まれていないのではないかと思った。論旨からすると、この根拠が文章の核にならなければおかしいような気がするのだが……。小林久美子さんの「現代の表層を歌い続ける」もおもしろく読んだ。作品分析がとても丁寧でそれだけでも充分に現代短歌の見取図になっている。表層というキーワードの含む意味がさらに明確になれば、歴史と同時代とを同時に掴みきれるのではないだろうか。

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