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<description>荻原裕幸活動報告</description>
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<title>2009年11月3日（火）</title>
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<description>文化の日。気の早い冬が顔をのぞかせた寒い一日だった。かれこれ五年以上、毎日朝食で...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;文化の日。気の早い冬が顔をのぞかせた寒い一日だった。かれこれ五年以上、毎日朝食でヨーグルトを食べている。むかしからの好物である。ただ、ヨーグルトに対する自分の食感の許容範囲はきわめて狭い。クリーミーなタイプもぱさぱさしたタイプも苦手だ。だから気に入った食感の商品だけを選んで買うのだが、スーパーの管理が乱暴で、どろどろになっていたり、水分が分離したりしていると、それだけでブルーな気分になる。このところ何ケースかブルーな気分が続いている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　空は太初の青さ妻より林檎うく／中村草田男&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第四句集『来し方行方』（一九四七年）に収録された一句。空の青さを言うあたりからは、樹上からの林檎を受けとっている感じもあるのだが、ごくふつうに林檎を剥いてもらったシーンだと考えるのが妥当だろうか。いずれにしても、「太初」の一語には、この林檎を、創世記のアダムとイブの世界につなげようとする意識があるのだろう。昭和二十一年の作品だというので、終戦によって何かがリセットされたこととも深く関連していようか。明るい語調の背景にひそむ闇を読みとるか、あるいは、闇のなかにきざすひかりだと読むかは、読者次第ということになりそうだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;きょうの一首。理性はそれを楽しめと言うのだが、感情は言うことを聞く気があまりないらしい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　説明のつかないものが在ることの悔しくて林檎をふかく噛む／荻原裕幸&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>荻原裕幸</dc:creator>
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<title>2009年11月2日（月）</title>
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<description>大学祭のため、同朋大学の講義が休講だったので、少しは時間ができるかと思っていたの...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;大学祭のため、同朋大学の講義が休講だったので、少しは時間ができるかと思っていたのだが、乾いた土に水をやるような感じで、どこかよくわからないところに時間が吸いこまれてゆく。午後、仕事の流れで、家人と外食。この秋、某スーパー内にオープンした魚介系の炒飯の専門店で炒飯を食べた。一人千円以内の予算で済む良心的な価格。味の方も良心的だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;文芸誌「&lt;a href=&quot;http://www4.kcn.ne.jp/~shozo/&quot;&gt;イリプス&lt;/a&gt;」第四号が届いた。この号には「誰かではあるわたくしのための五十首」と題して、短歌五十首を出稿している。二〇〇八年の立冬から二〇〇九年の立夏までの「きょうの一首」を編集構成したもので、これまでの三号と同じく、極小歌集風にまとめてある。一日一首を書いて、それを選び直して構成するというのは、自分としてはそれなりに満足できるできばえになるのだが、一定数の作品群に必要な凹凸と言うかざらつきと言うか、そうしたアクティブな感じをどこか欠いてしまうところがある。ときどきは無理して一気にまとめて書くことも必要なのかも知れない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;きょうの一首。日常会話のなかで、ことばが真意のまま使われることは、どれほどの比率を占めるのだろうか。自分の場合、かなり少ないような気がする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　晩秋のひざしにことば裏向いて歪んで縒れて莫迦などと言ふ／荻原裕幸&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>荻原裕幸</dc:creator>
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<title>2009年11月1日（日）</title>
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<description>きょうから十一月。午後からは雨となったが、最高気温は連日二十五度前後、あたたかな...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;きょうから十一月。午後からは雨となったが、最高気温は連日二十五度前後、あたたかな日が続いている。中村草田男『長子』の「あたゝかき十一月もすみにけり」の十一月には、こんな日々がさらに続いたのだろうか。むろん、そうは言っても、あと一週間ほどで立冬、紅葉や黄葉を間にはさんで、下旬にはすっかり冬になるのが例年のスケジュールである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　掌（て）のなかへ降（ふ）る精液の迅きかなアレキサンドリア種の曙に／岡井隆&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第四歌集『眼底紀行』（一九六七年）に収録された一首。「少年期に関するエスキース」という、回想的な連作の一首である。生理的な行為だからか、自閉的な行為であることが問題なのか、倫理に反するといった印象があるからなのか、自慰をモチーフにした短歌は稀だし、語りづらくもある。以前、小池光さんがこの一首を鑑賞したとき、自慰とその同義語を一回も使わずに書いていて驚いたことがあるのだが、短歌においては禁忌に近いものなのだろう。「掌のなかへ」とか「迅き」とか、やたらにリアルな射精の描写をして、その「曙」を西洋葡萄の清澄なイメージでまとめるというのは、リアリズムを逆手にとり、意図的に禁忌を踏みこえて、新しい境地を求めたものかと思う。ただ、いかんせん、肝心の読者や鑑賞者の側が、禁忌を踏みこえるのをためらっているため、いまだにこの文章のような、婉曲で韜晦した感想ばかりが述べられるにとどまっているのかも知れない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;きょうの一首。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　気象や気温に気分は左右されながら秋のかたちの野菜を選ぶ／荻原裕幸&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>荻原裕幸</dc:creator>
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<title>2009年10月31日（土）</title>
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<description>小学館の学習雑誌のなかで、「小学五年生」と「小学六年生」の二誌が、今年度で休刊す...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;小学館の学習雑誌のなかで、「小学五年生」と「小学六年生」の二誌が、今年度で休刊することになったという。時代の変化と読者のニーズにあわなくなったのが理由らしい。三十数年前には自分も愛読していた雑誌なので、さびしい気もするのだが、休刊云々よりも、むしろ、この数十年の激変や多様化にそれなりに対応して存続して来た事実の方にあらためて驚かされた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」の或る回のこと、ＳＯＳ団の占拠する部室で、長門有希が、ロバート・Ａ・ハインラインの『愛に時間を』の矢野徹訳の早川書房版のハードカバーを読んでいるシーンが出て来る。その回のモチーフが、ハルヒをめぐるタイムパラドックスなので、まったく関連がないとも言えないのだが、ストーリーを象徴する伏線ならば、ハインラインの『愛に時間を』を選ぶのはあきらかにおかしい。他にふさわしい作品がいくらでもある。そのとりあわせの微妙なずれが気になったこともあって（ついでに言えば、自分の持っている一九七〇年代の版と少し裏表紙のデザインが違うのも気になって）、くっきりと記憶に焼きついてしまった。あえて選択したとりあわせだと思われるが、これはすぐれて俳句的だなあ、と奇妙なアングルから感心していた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;きょうの一首。十月が終る。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　憂鬱とひとに言ふにはあまりにもかすかなかげのなかに十月／荻原裕幸&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>荻原裕幸</dc:creator>
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<title>2009年10月30日（金）</title>
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<description>ジャパネットたかたのテレビショッピングをなんとなく流していると、最新のパソコンの...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;ジャパネットたかたのテレビショッピングをなんとなく流していると、最新のパソコンの商品説明のなかで、ウインドウズ７のことが盛んに語られていた。およそ九割と言われるウインドウズのシェアを考えれば、不思議でも何でもないことだが、あまりぴんと来ないなあと、マックユーザである自分は思う。ウインドウズユーザがスノーレパードに反応しないのと同じことか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「現代詩手帖」１１月号の、高柳克弘さんの俳句時評のなかに「&lt;em&gt;俳句が他ジャンルの読者を（隣接する歌人や現代詩の詩人にすらも）得られないという最大の因は、〈季題〉という概念にあるのだろう。厄介なのは、それが同時に、俳句が俳句であるための、重要なアイデンティティーになっていることだ&lt;/em&gt;」と記されていた。高柳さんはそこから脱け出す契機の一つとして、季題ならぬ季語の意識から俳句を考えることをあげている。御意という気がした。俳人にしかわからない、あるいは、歌人にしかわからない、詩人にしかわからない、と言われる要素は、各ジャンルの財産と言ってもいいものだが、これをジャンル内でありのままに活かせば閉塞するし、外に踏み出すために棄ててしまえばジャンルそのものが死んでしまう。求められるのは、ジャンルの内外でそれを同時に機能させるハイブリッド性か。実現が困難だとしても、志向して何らマイナスは生じないはずだ。むしろ、志向しないところには、閉塞と退屈が生じはじめるだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;きょうの一首。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　消印のその名がなぜかことさらにすさまじき名に見えて静岡／荻原裕幸&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>荻原裕幸</dc:creator>
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<title>2009年10月29日（木）</title>
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<description>早朝、家人と某カフェで朝食。半月ほど前、定休日にあたってふられた店。古代エジプト...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;早朝、家人と某カフェで朝食。半月ほど前、定休日にあたってふられた店。古代エジプトの神の名が店名になっていたが、店名とは何ら関連のなさそうな、いかにもいまどきのカフェ風な印象の内装がほどこされていた。客層は、カフェと言うよりはもう少し近所の喫茶店にモーニングをしに来るような人たちに近い感じ。午後や夜になるとまた雰囲気が違うのかも知れないが。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;結社誌「短歌人」１１月号が届いた。この号には、村田馨さんの第一歌集『疾風の囁き』（六花書林）の書評を寄稿している。「直情径行村田急線」と題して、四百字で四枚弱ほど。同歌集の「目玉」となっている鉄道系の作品を中心とした鑑賞に、賛辞や注文など、歌集全体についての印象を挿入するようなスタイルで書いてみた。同誌の村田さんの書評の執筆者は三人で、久々湊盈子さんと斉藤斎藤さんの文章の間に挟まれている。三人ともテキストよりもやや作者に近いところからことばを繰り出しているのが印象的だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;きょうの一首。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　見えてゐるのにどうしても届かない夜寒の棚の裏のコンセント／荻原裕幸&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>荻原裕幸</dc:creator>
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<title>2009年10月28日（水）</title>
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<content:encoded>&lt;p&gt;早朝、Ｔシャツに薄手のパーカーで外を歩いてみるとかなり寒い。某所で鞠のような体型になって跳ねている雀の一群を見た。何ともかわいらしい。歳時記的には寒中の存在なのだが、いわゆるふくら雀である。ちなみに、手元の歳時記では、ふくら雀／寒雀のことを「毛並もまるまるとふくらんできて、焼鳥にすると美味である」と、山本健吉が書いていた。焼鳥にされてしまうらしい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;午後、中京大学へ。オープンカレッジ「俳句を楽しむ」、秋期の七回目。きょうの題は「肌寒」、それと雑詠。１１人出席で詠草は２０句。以下、きょうの題に即して二句。肌寒をはじめ、秋の寒さは、こころで感じるか、からだで言えば表面で感じる寒さだと思う。一方、冬の寒さは、からだの芯から感じる寒さである。してみれば、こころはからだの内側よりも早く外の寒さを感じるわけだ。こころとは、からだの奥の方に位置するとイメージされていながらも、存外からだの外に位置するものなのかも知れない、などとつまらないことを考えながら。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　肌寒のみづからを抱くすがた佳し／荻原裕幸&lt;br /&gt;
　こんなとこまで秋風に濡れてゐる&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;きょうの一首。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　わたしを堅い逃場のひとつだとみなす朋につがれてゐる冬隣／荻原裕幸&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>荻原裕幸</dc:creator>
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<title>2009年10月27日（火）</title>
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<description>数日ぶりの好天。午後、東別院の名古屋市女性会館へ。ねじまき句会の例会。参加者は五...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;数日ぶりの好天。午後、東別院の名古屋市女性会館へ。ねじまき句会の例会。参加者は五人。題詠「泣」と雑詠。いつもの通り、無記名の詠草から選句して、一句一句の読解と批評を進めてゆく。こころなしか参加者のテンションがふだんよりも高かったように感じた。句会後、会場近隣のコメダ珈琲店にて歓談。きょうの句会に提出した川柳は以下の二句。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　樹上でも船でも泣いたことがない／荻原裕幸&lt;br /&gt;
　酔っている間にいつも増えている&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;きょうの朝日新聞の夕刊、中部版学芸欄に、隔月連載の詩歌句時評「東海の文芸」が掲載された。今回とりあげたのは、大辻隆弘さんと吉川宏志さんの時評集『対峙と対話』（青磁社）、北川朱実さんの詩集『電話ボックスに降る雨』（思潮社）、加藤かな文さんの第一句集『家』（ふらんす堂）、郷正子さんの第二句集『秋声の昼』（文学の森）である。次回の執筆が年末で、一年の回顧的な内容になるため、やや窮屈な感じで四冊に言及することになった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;きょうの一首。友人のスケッチ。少し古風なセンスという気もするのだが、個人的には好きな部類に入る署名である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　手紙の終りにいつもＡ子と署名して英子は誰でもない人となる／荻原裕幸&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>荻原裕幸</dc:creator>
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<title>2009年10月26日（月）</title>
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<description>午後、同朋大学へ。文章表現の講義の五回目。講義後、某所でぼんやり喫煙していると、...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;午後、同朋大学へ。文章表現の講義の五回目。講義後、某所でぼんやり喫煙していると、近くで女子高生二人が、何やら楽しげに話をしている。一人が何か言いながら小指を出す。約束の指切りかと思って見ていたら、もう一人がその手を両手で包むように掴んで、いきなり小指を口にくわえたのだった。二人ともに少し顔を赤らめながらきゃあきゃあと騒いでいた。なかよきことはうつくしきかな。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;新潮社から「芸術新潮」１１月号が届く。「京都千年のタイムカプセル　冷泉家のひみつ」と題された特集が組まれていて、古典和歌の背後の世界が、文献をはじめとした資料写真等、ビジュアルを中心にまとめられている。興味があってもなかなか踏みこめない世界を垣間見させてくれるのがうれしい。この特集のなかに「現代歌人に訊く　わたしの好きな俊成・定家」というアンケートがあって、ぼくも出稿した。藤原俊成と藤原定家の各一首を選んで４００字のコメントを付すものである。出稿者は十人で、掲載順に、高橋睦郎、河野裕子、小池光、吉川宏志、黒瀬珂瀾、俵万智、岡井隆、荻原裕幸、馬場あき子、水原紫苑という顔ぶれ。選歌にもコメントにも各自のらしさがよく出ていると思った。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;きょうの一首。他人にこれをされると少々いらいらするのだが、自分もどこかで無意識にこれをしているような気はする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　わからないと奥が深いをごちやまぜにする人が来て秋を深める／荻原裕幸&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>荻原裕幸</dc:creator>
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<title>2009年10月25日（日）</title>
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<description>家人が早朝から外出。留守番。調べものかたがた澁澤龍彦を読んでいて、むかし、ある研...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;家人が早朝から外出。留守番。調べものかたがた澁澤龍彦を読んでいて、むかし、ある研究者の女性と話をしていた折、話題が澁澤のことに及んで、彼女が、澁澤の仕事の力量をかなり高く評価した上で、しかしながらつまるところ「変態」である、と結論した、その鮮烈なまでの見くだしぶりに、何やらものすごく感動したのを思い出した。いまで言うところの「萌え」に近い感覚だったか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　『インベーダー・ゲーム』と『ゼビウス』を分けるもっとも大きな違いは、物語的な展開の有無にある。『インベーダー・ゲーム』には、たとえ高得点を重ねたとしても、長時間のプレイには堪え得ない単調さがある。それはこのゲームが、地球／外宇宙の侵略者、内／外にしめされるような神話的二元論を提示するだけで、物語の展開が紡ぎ出されるようなきっかけを失っているからだ。ところが『ゼビウス』のプレイヤーは、何時間でもこのマシンと「対話」しつづけることができる。「対話」がどんどん展開し、拡がっていくからである。『ゼビウス』のスクロール展開の背後に、何かとても大きな物語性がひそんでいるという直感に、プレイヤーは突き動かされてしまうのだ。／中沢新一「ゲームフリークはバグと戯れる」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;『雪片曲線論』（一九八五年）に収録されたゲーム論の一節。中沢新一の切味をよく示している代表的な論考の一つだと思う。ゲームとゲーム史の説明は省略するが、中沢が指摘するこの革命的な変化は、除去されないバグの魅力と相俟って、以後、ゲームを一つのジャンルに成長させたと言ってもいいように思う。ゲーセンにゼビウスが出回った直後、自分はそれまで熱中していたゲームそのものから「卒業」した。ゲームに求めていた息抜きとしての単調さが決定的に失われはじめたからだ。数年後、中沢の文章を読んで苦笑したときには何とも思わなかったのだが、しばらくして、つまらない選択をしたことに気づいた。すでに四半世紀、ゲームに再入門する機会を見つけられないままでいる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;きょうの一首。こうした文体で作品をまとめていると、ふと、自分は何を言っているのだろう？　と思うことがある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　どの方位にわたしがゐるかなんとなくわかる気がする秋の夕暮／荻原裕幸&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>荻原裕幸</dc:creator>
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