小池光さんの「世界を揺るがした十日間」
内容のまだほとんどないスタートの宣言のみでこんなに話題になる短歌系ブログも珍しいと思うのでおもしろがってここでも宣伝。小池光さんのブログです。なんだかわくわくしますね。
http://blog.livedoor.jp/qqng48r9/
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題詠マラソン2004、村本希理子さんの100首からの5首選。ちょっとしたわけがあって村本さんの作品をマークしていた。彼女が完走したところで5首を選んでみた。ここまで選びきることもない佳作の多い100首だが、厳選はそれなりに意味があると思うので。
もうゐない犬のかたちをなぞりつつひかりの中をうごけずにゐる/村本希理子
あまりにも濃い夕焼けをいぶかしみ空の発する音を捜した
歯磨きの好みのことを言ひあつてそののち深き水音をきく
高台にあるお屋敷に病弱な美少女がいてもいなくても 夏
どこまでが家族或いはどこからが家族どこかが磨り減る音が
一首目の「もうゐない犬のかたち」は、かたち、という語をはじめとした乾いた語の選択によって、文体が実にうまくまとまっている。死や失踪をあからさまには感じさせないため、かえって読む側の深いところに情景が届くのだろう。二首目の「あまりにも濃い夕焼け」は、遠い国での戦争がモチーフだと思うが、仮にそれを意識しなくても読めるのがいい。背景の散文的情報をダイレクトに入れないからこそことばがきらめいた感じがある。三首目の「歯磨きの好み」は、深き水音、という思わせぶりな謎が活きている。思わせぶり、も、謎、も、どちらかと言えばマイナス要因になりやすい。それが活きたのは、平凡に近い日常空間を枠組みにした効果か。四首目の「高台にあるお屋敷」は、ひととき笑い、やがてそこはかとない哀愁にみまわれる。発語者の視点が、美少女自身でもあり美少女をあこがれてみあげるもう一人の少女でもあり、と、安定せずにスライドする感じは、瑕とはならない魅力になっているようだ。ただ、現代仮名なのは、ミスなのかな……。五首目の「どこまでが家族」は、ことば遊びのようなこのことばの流れのなかにこれだけの発見があるというのが凄い。狙ってもなかなか書けるものではないし、まさに、題詠による収穫、と言えようか。それで、ちょっとしたわけ、というのは、今年の四月中旬、村本さんの掲示板で、題詠マラソンのぼくの作品に対するコメントを読んだとき、なんとなく、作者と読者として相性のいい時期なのではないか、と思ったことだった。その後も、かなり苦しいシーンで何回も彼女のコメントに救われた。というわけで、感謝のきもちをこめて。
一昨日の夜、ここに「石井辰彦さんのブログを読む。驚く。」と書いた。中途半端なコメントだったので、無粋ながら説明をしておきたい。ぼくがなぜ驚いたかと言えば、静観的な態度を匿名大型掲示板で皮肉られたときのその呼び名を軽く笑い飛ばして自身の日記名に冠するほどの超静観派=世渡りジョーズが、世渡りベタをきわめたようなコメントを他者の掲示板に書きこんだことによる。書きこんだ行為や内容で単純に驚いたのではない。世渡りジョーズを世渡りベタにしてしまうほどの何かが三年前の九月のテロにはあるのだという事実を再認識したからである。あのテロをめぐる意識は、この三年、薄らぐことなくぼくのなかにもあるのだが、加えて、あのテロだけを過剰に特化して考えると見えなくなるものが生じるかも知れないという警戒心がある。その思考の微妙な匙加減のさなかに背中からどんと押された感じの驚きだったのだ。ともあれ、世渡りジョーズが世渡りベタをきわめた日が示す意味を、これから真摯に考え続けてみたい。
牧野芝草さんのウェブ「夢現間隙」で、題詠マラソン2004の、31から40までの作品批評を書いてもらった。40の投稿から24時間もしないうちに掲載されていた。感謝。牧野さんは今年、ぼくの1から100までの作品すべてについて批評を書いてくれるというので、とてもうれしいのだが、かなり緊張もしている。なんとか完走したいと思う。ところで、牧野さんのウェブ、雑文群(「散慮逍遥」)が印象的。ぼくは、参加した批評会のレポート等をまとめるとき、性格的なものなのだろうか、副次的なことをふくらませて、ロジックの辻褄をあわせすぎる悪い癖がある。牧野さんの丁寧なレポートを読むと、いつも自分のいいかげんさが身にしみるのだった……。次回どこかでイベントがあったときは、カンニングさせてもらおうかな(笑)。
毎週木曜ないしは金曜、枡野浩一さんの枡野浩一のかんたん短歌blogが更新される。トラックバックを活用しての読者の投稿を、枡野さんが選歌してコメントするというスタイル。つまりは投稿歌壇。新聞歌壇に対してこれはウェブ歌壇と呼べばいいだろうか。枡野さんの選歌は、それに枡野さん自身の短歌もそうなのだが、作中の一人称をあまりべったり作者の自意識にひきよせない。平たく言うならば、巷の誰が発してもおかしくはないような一般性のあることばとして書かれたものが多い。歌人の多くが枡野的文体を嫌う理由はここにある。が、枡野的文体を否定するロジックが成り立つかどうかとはむろん別の話である。
毎週月曜、東郷雄二さんのサイトの「今週の短歌」が更新される。東郷さんのように、まったく違うジャンルの最前線にいる人が短歌を好む、というケースは聞かないこともないのだが、ここまで本格的な短歌論というのは例がない。そもそも歌人にだって、これほどきちんと現在を語っている人が何人いるだろう。必読サイトとして広く奨めておきたい。
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